本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。

瀬名が武田と内通してたのは本当?最期の悲劇を徹底調査!

瀬名が武田と内通してたのは本当?最期の悲劇を徹底調査! エンタメ
Pocket

2023年に放送された『どうする家康』は、家康役の松本潤の毎回のダメダメッぶりと家臣とのやり取りなどがコミカルで面白く、すんなり観ていけましたよね。

NHKの大河ドラマ第62作めとなりますが、脚本家・古沢良太の描く新しい徳川家康像が新鮮で、NHKの【若い視聴者を取り込みたい】本気度が伺えます。

中でも家康の正室・瀬名(築山殿)を演じる有村架純が可愛らしく、それがだんだん太っ腹母さんになっていく描き方に引き込まれ、武田勢との内通の道筋や最期の悲劇の終結の行方に注目が集まりました!

そこでこれまで知られた歴史の定説と今回の新しい描き方について、【瀬名が武田と内通してたのは本当?最期の悲劇を徹底調査!】してみました。

 

瀬名が武田と内通してたのは本当?

瀬名が武田と内通してたのは本当?最期の悲劇を徹底調査!

歴史的事実からぶっちゃけますと、瀬名と家康の長男・信康は1579年(天正7年)に相次いで亡くなっています。

但し、この要因に関しては諸説があり、その一つとして瀬名の武田内通が挙げられます。

ではその諸説を挙げてみましょう。

 

瀬名と家康の不仲説

え、うそ?と思われる方が大勢いると思います。

はい、今回の大河ドラマでは全くの逆である仲睦まじい二人ですからね。

しかし、これも考えられることです。

というのも、瀬名の両親は家康が原因で亡くなったと言われるからです。

元々家康は今川家に人質として連れて来られ、幼少から過ごしていました。

そこで父は今川義元の家臣である関口親永、母は今川義元の妹である瀬名と結婚したのです。

ところが1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、それまで今川の配下として参戦していた家康はチャンス!とばかりにそのまま誕生地である岡崎城に戻り、そこを拠点に三河統一を始めました。

その上、今川の敵方・織田勢と同盟を結んだのです。

当然今川家の次の当主・氏真としては面白くありません。

繋がりを疑われた家康の舅である関口親永は駿府の屋敷で切腹、瀬名の母も自害したと伝えられます。

直接手を下したわけではなくとも、その要因となった家康を瀬名は恨みに思いますよね。

それが元で、瀬名と不仲になった家康はその後次々と側室を20人も抱え、その側室との間に嫡男も生まれたのでお家の存続も安泰となり、邪魔になった瀬名と信康を消したと言われます。

 

瀬名は我が子・信康可愛さのあまり武田についたか?

前述の通り家康と疎遠になった瀬名は、1570年(元亀元年)家康が岡崎城を信康に譲って浜松城に移っても自身は岡崎城に留まり続けます。

まだ10歳前後と幼い信康を思ってのこととも見えますが、この家康の目の届かない場所で甲斐国から呼び寄せた唐人医師・滅敬と密通し、家康と敵対していた武田勝頼と内通していたと言われています。

一説には武田から徳川家康を滅ぼした後、信康を当主として徳川家の存続を認めてもらう密約をもらっていたそうです。

それは仲違いした夫より実の息子を選びますよね。

 

内通していたのは信康の家臣のみ?

武田と内通していたのは、実は信康の家臣だったという説もあります。

歴史上も記載のあるもので、1575年(天正3年)に信康の元で町奉行をしていた大岡弥四郎が三河国に侵攻する武田勝頼を岡崎城に手引きする謀反計画でした。

しかしこれは謀反仲間の改心により未然に発覚し平定されました。

まだ小さい嫡男信康(岡崎城)と家康(浜松城)が離れて治世したため、信康の代わりに実質的実権を握った岡崎城家臣による裏切りだったのです。

当時家康は瀬名と信康の関与はなかったとして信長には知らせなかったのですがその4年後、信康の正室である徳姫(ドラマ【どうする家康】内では五徳の名で統一)が12ヶ条の訴状を父・織田信長に送り、その中で信康や姑・瀬名への不満と武田との内通を知らせました。

そのことが引き金となり、二人は命を失ったということです。

 

瀬名の最後の悲劇を徹底調査!

瀬名が武田と内通してたのは本当?最期の悲劇を徹底調査!

信康と瀬名の命に終止符を打ったのは、織田信長の意向によるものと徳川家康自身の意思によるものという2つの説があります。

それぞれを見ていきましょう。

 

織田信長の意向による説

信康の正室・徳姫が父・織田信長に送った12ヶ条の訴状がきっかけとなり信康と瀬名は命を失ったと言われます。

その内容はどのようなものだったのでしょう。

実はこの文書は見つかっておらず、内容については憶測のまま様々に言われています。

一つは徳姫が娘二人を産んだものの、嫡子が出来ないために瀬名が元武田の家臣の娘などを信康の側室として迎えさせたこと。

それは正室の徳姫としては許せない姑の所業ですよね。

一つは瀬名が前述の通り甲斐国から呼び寄せた唐人医師・滅敬を通じて武田勝頼と内通していたこと。

武田は織田の敵対勢力なのでこれは勿論問題となります。

一つは信康は気性が激しく、鷹狩りで出会った僧を縄で絞殺するなどの乱暴な振る舞いが多かったこと。

それらのことから戦さ上手な信康の事を、将来自分の跡取りである信忠の手強い相手になると怖れを持っていた信長が、家康に信康を亡き者にするよう命じたというものです。

 

徳川家康自身の意思による説

家康と信康には埋めがたい溝が出来ていたとの説があります。

そのために逆に信康の正室・徳姫の父である織田信長に伺いを立てて信康を亡き者にし、我が子を消されたら騒ぐであろう瀬名も道連れにしたというものです。

それについては晩年の家康が「(讒言によって)父子の仲平(たいら)ならざりし」と後悔していた事や、秀忠の妻・お江与(えよ)に対して「(信康を)気儘に育て(中略)、後には親子の争ひの様になり候て、毎度申し候ても聞入れず」却って親を恨む様になった、とこぼしていたそうです。

浜松城と岡崎城と離れて暮らした父子が、周囲の人間の影響もあって関係が悪くなったというものですが、やはりそれでも「武田との内通」が一番の命取りとなったようです。

 

瀬名の廟堂は?

いずれにしても徳姫が信長に12ヶ条の訴状を送った1579年(天正7年)のうちに、瀬名と信康の二人は相次いで亡くなっています。

信康は遠江国の堀江城に移され、更に二俣城に移されて自害(切腹)。

瀬名は浜松城に移されることになりますがその途中、遠江国の小籔村で家康の家臣に消されました。

瀬名抹消に関与した野中重政、岡本時仲、石川義房はその後皆不幸に見舞われたそうです。

のちに岡崎では病が流行り、「瀬名の祟り」と言われました。

そこで瀬名の廟堂である【月窟廟(げっくつびょう)】の入り口に、重政の孫で水戸藩士の野中重羽が慰霊のための石灯籠を寄進したそうです。

 

【瀬名が武田と内通してたのは本当?最期の悲劇を徹底調査!】まとめ

瀬名が武田と内通してたのは本当?最期の悲劇を徹底調査!

以上、瀬名が武田と内通していたのかどうか?また最期の悲劇の結末についてまとめてみました。

その結果、大河ドラマ【どうする家康】がとても脚色された描き方をしていることがわかりました。

ドラマでは、瀬名が武田と内通して「戦さのない、助け合う同盟関係を共通通貨で作る」としています。

その当時、本当にそんな交流関係が築けたらどんなに良かったことでしょう!

しかし、現実には瀬名も信康も命を落とし、悲劇的な最期を遂げます。

その要因は天下人・織田信長の意向によるものと、もう一つはよりによって自身の夫・家康の意思によるものというなんとも切ない仮説がありました。

これまでも戦国時代は、親子といえども互いに戦うことも多々ある酷い時代という印象がありましたが、その中で今回の『どうする家康』はとっても人間味のある家康像と仲の良い瀬名という脚本に、「これが本当だったらな…」と思わせるドラマでした。

史実はともかく、このドラマに関しては「そうだったら良いな」をひと時味わえた、今までにない家康像と瀬名像でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました